2023年以降、企業規模と地域で賃金の伸びに差 春闘の高水準賃上げが全員に同じ形で届かない理由
日本では春闘を中心に高い賃上げ率が続いているにもかかわらず、働く人すべてが同じように所得改善を実感しているわけではない。内閣府経済社会総合研究所(ESRI)が9月1日に公表したDiscussion Paper No.407「賃金伸び率のばらつきの動向」は、その背景にある一つの構造を明らかにしている。2023年以降、賃金の伸び率そのものが高まる一方で、企業規模や地域などによって上昇率の差も急速に広がっているという。
研究は、性別や年齢、学歴など賃金水準に影響する基本的な属性が同じ雇用者をグループ化し、それぞれの平均賃金がどの程度伸びたかを分析している。その結果、賃金伸び率のばらつきは2000年代後半から2010年代末にかけて縮小する傾向にあったが、コロナ禍で一度上昇した後、2023年以降は急速に拡大していることが確認された。
これは、平均賃金や春闘の妥結率だけを見ていては、日本の労働市場で起きている変化を十分に把握できないことを示している。賃上げの「高さ」だけでなく、誰の賃金がどれだけ上がったのかという「広がり」を見る必要が出てきた。
賃上げ率が上がっても、全員の賃金が同じように上がるわけではない
春闘では毎年、主要企業を中心に賃上げ率が集計され、その数字が日本全体の賃金動向を象徴する指標として使われる。しかし、そこで示される平均値がそのまま全雇用者の実感につながるわけではない。
例えば、ある企業では5%の賃上げが実施されても、別の企業では2%にとどまることがある。同じ業種でも企業規模や収益力、人材確保の難しさによって対応は異なり、地域によっても労働需給や企業の価格転嫁力に差がある。
ESRIの研究が注目したのは、こうした「平均値の内側」にある分散である。賃金上昇が続いているかどうかだけではなく、その伸びが労働市場のどこまで均等に広がっているのかを確認した点に特徴がある。
2023年以降、賃金の伸びの差が急拡大
研究によると、同じ基本属性を持つ雇用者グループ間でみた賃金伸び率のばらつきは、2000年代後半から2010年代末にかけて縮小していた。ところがコロナ禍で一度広がり、その後2023年以降になると、ばらつきが急速に拡大する動きがみられた。
この時期は、春闘の賃上げ率が大きく上昇し始めた時期とも重なる。人手不足が深刻化するなか、企業が人材を確保するために賃金を引き上げる動きが強まり、労働市場の需給状況が賃金に反映されやすくなった。
一方で、すべての企業が同じだけ賃上げできるわけではない。業績が改善した企業や価格転嫁が進んだ企業では高い賃上げが可能になる一方、利益率が低い企業やコスト上昇を価格に転嫁できない企業では、賃上げ余力が限られる。
賃上げが進むほど、むしろ企業ごとの差が見えやすくなるという逆説的な状況が生まれている。
大企業と中小企業の「賃上げ体力」の差
ESRIの分析では、2023年以降の賃金伸び率のばらつき拡大に、企業規模間の違いが大きく寄与している。特にコロナ禍後の回復局面では、一部企業の収益性が大きく改善する一方、企業規模によって賃上げに使える余力の差が広がった可能性が指摘されている。
大企業は比較的、価格転嫁を進めやすく、海外事業の収益や円安の恩恵を受けるケースもある。また人材獲得競争が激しい業界では、賃金を引き上げなければ採用そのものが難しくなるため、賃上げを経営戦略として実施する企業も増えている。
これに対して中小企業では、原材料費やエネルギー価格、人件費が上昇しても、それを販売価格へ十分に反映できないケースが少なくない。取引先との力関係や競争環境によって価格転嫁が難しければ、利益を確保しながら大幅な賃上げを続けることは容易ではない。
その結果、日本全体では「賃上げ率が高い」という数字が出ても、企業規模によって実際の賃金上昇幅には差が生まれる。
地域差も拡大を押し上げる
今回の研究では、企業規模だけでなく地域間の違いも賃金伸び率のばらつき拡大に大きく寄与している。
都市部では人材獲得競争が激しく、企業が採用や定着のために賃金を引き上げる圧力が強まりやすい。特に専門職やIT、金融、サービス業などでは、転職市場を通じて賃金水準が比較されやすく、企業側も相場を意識した待遇改善を迫られる。
一方、地方では産業構造や企業規模、労働移動の程度が異なるため、賃上げ圧力が同じ形で働くとは限らない。地域によって企業収益や人手不足の度合いも異なり、その差が賃金上昇率へ反映される。
このため全国平均の賃金が上がっていても、住んでいる地域によって所得改善の実感が異なる可能性がある。賃上げを「全国共通の現象」として見るよりも、地域ごとの労働市場として捉える必要が高まっている。
同じ属性でも賃金の伸びは違う
この研究の重要な点は、年齢や性別、学歴といった一般的な属性だけでは、最近の賃金格差の動きを十分に説明できないことにある。
研究では分散分解を行い、2006年以降から2010年代末にかけて賃金伸び率のばらつきが縮小した背景を分析した。その結果、異なる属性間の差が小さくなったというより、同じ属性を持つ雇用者の間で賃金の伸びの差が縮小していたことが示唆された。
逆に言えば、現在の賃金上昇局面では「同じような人でも、どの企業や地域で働くかによって賃金の伸びが違う」という現象が再び強くなっている可能性がある。
年齢や学歴だけでなく、所属企業の収益力、企業規模、勤務地、産業の需給状況といった要因が、賃金上昇の差を生む重要な条件になっている。
人手不足が賃金を押し上げる一方で差も広げる
2023年以降の日本では、人手不足が賃金決定に与える影響が以前より強くなっている。ESRIも、労働市場の需給動向が賃金上昇に反映されるようになったことが、賃金伸び率のばらつき拡大と関係しているとみている。
人材不足が深刻な企業では、採用できなければ事業そのものを維持できないため、賃金を引き上げる必要性が高まる。転職市場で競合企業が高い給与を提示すれば、既存社員の流出を防ぐためにも待遇改善が必要になる。
一方、人手不足があっても利益率が低ければ、企業は十分な賃上げを実施できない。つまり労働市場からの賃上げ圧力と、企業自身の支払い能力との間に差が生じる。
この差が、賃金上昇局面で企業間格差を拡大させる要因となる。
「平均賃金」だけでは生活実感を説明できない
賃金を巡る議論では、名目賃金や実質賃金、春闘の賃上げ率といった平均値が中心になりやすい。しかし家計が実際に感じる所得改善は、自分自身の賃金がどれだけ増えたかによって決まる。
平均で5%上がったとしても、5%以上の賃上げを受けた人と、ほとんど変わらなかった人が混在していれば、生活実感は大きく異なる。
さらに物価上昇も加わる。賃金が上がっても、その伸びが物価上昇を下回れば購買力は改善しない。反対に高い賃上げを受けた人では、物価上昇を上回って実質的な所得が増える可能性がある。
そのため「賃上げが続いているのに、なぜ豊かさを感じないのか」という問いに対しては、平均賃金の伸びだけではなく、賃金上昇がどの層にどの程度届いているのかを見る必要がある。
消費者心理は改善しても、依然低い水準
所得改善の実感を考えるうえでは、消費者心理も参考になる。内閣府が9月1日に公表した2026年8月の消費動向調査では、消費者態度指数は35.5となり、前月から0.6ポイント上昇した。調査は8月15日時点で実施され、8,400世帯を対象としている。
指数は改善しているものの、家計が将来に対して強い楽観を持っている状態とは言い難い。賃金が上昇していても、物価高や住宅費、社会保険料などの負担が重ければ、可処分所得の増加を実感しにくい。
さらに賃上げ率そのものに企業間・地域間の差が広がれば、「賃金上昇」というマクロ統計と個々の家計の感覚の間には一段と距離が生まれる。
賃上げ政策は「率」から「広がり」へ
政策面でも、今後は賃上げ率の高さだけを追うのでは不十分になる可能性がある。
大企業で高い賃上げが続いても、中小企業や地方企業に十分広がらなければ、日本全体の所得構造は改善しにくい。むしろ賃金上昇率の差が拡大すれば、所得格差や地域格差として表面化する可能性もある。
そのため重要になるのが、企業の賃上げ余力を左右する生産性や価格転嫁、収益力の改善である。人件費だけを増やして利益が減れば賃上げは持続しないため、企業が適正な価格を設定し、付加価値を高め、その成果を賃金へ還元できる構造が必要になる。
特に中小企業では、賃上げ政策を単独で進めるのではなく、価格転嫁や取引適正化、設備投資、省力化などと組み合わせることが重要になる。
「賃金が上がる日本」の次の課題
日本経済にとって、賃金が上昇する状況そのものは大きな変化である。長く賃金がほとんど伸びなかった時代から、人手不足や物価上昇を背景に企業が継続的な賃上げを意識する時代へ移りつつある。
しかし次に問われるのは、その賃上げがどこまで広く届くかである。
ESRIの分析が示しているのは、2023年以降に賃金上昇率が高まる一方、その伸び方の差も拡大しているという現実だ。特に企業規模と地域による違いが、賃金伸び率のばらつきを大きくしている。
平均賃金が上がることと、多くの人が所得改善を実感することは同じではない。日本の賃上げが次の段階へ進むためには、春闘の平均妥結率だけでなく、大企業から中小企業へ、都市から地方へ、賃金上昇がどれだけ広がったかを確認する必要がある。
賃金政策の焦点は「何%上がったか」から、「誰の賃金が上がったか」へ移り始めている。