中小企業の採用難、賃上げだけでは限界
人財の定着・育成と価格転嫁が「稼ぐ力」を左右する局面に
日本の中小企業が、人手不足と物価上昇という二つの圧力に直面している。採用活動を行っても必要な人数を確保できず、同時に原材料費、燃料費、人件費の上昇を十分に価格へ転嫁できない企業が少なくない。中小企業経営の課題は、単に人を採ることから、限られた人財を定着させ、育成し、収益を生み出す構造へ変える段階に入っている。
大同生命保険が公表した2026年5月度の「大同生命サーベイ」によると、全国5068社の中小企業経営者を対象に「中小企業の人財戦略・物価上昇の経営への影響」を調査した。調査は2026年5月1日から28日にかけて、訪問またはZoom面談で実施された。現在の業況を示す業況DIはマイナス12.3ポイントで、前月から0.1ポイント悪化し、5カ月連続で低下した。一方、将来DIはマイナス5.9ポイントで、前月から0.7ポイント改善したものの、なお低調な水準にとどまった。
同調査で特に目立つのは、採用意欲があるにもかかわらず、人員を確保できない企業の多さである。2025年度に採用活動を行った企業は約半数に上ったが、そのうち約7割で採用人数が充足しなかった。従業員規模が大きいほど採用意向は強く、21人以上の企業では約9割が採用活動を行ったにもかかわらず、6割以上が「採用できたが不足」または「採用できなかった」と回答した。
2026年度についても、採用予定またはすでに採用した企業は24%、採用を検討中の企業は25%となり、合計49%の企業に採用意向があった。11〜20人規模の企業では73%、21人以上では87%が採用意向を示しており、中小企業でも労働力確保の動きは続いている。ただし、採用意欲の強さがそのまま採用成功につながっていない点に、現在の労働市場の難しさがある。
この傾向は、大同生命の調査に限られない。帝国データバンクが2026年4月に実施した調査では、正社員の人手不足を感じている企業は50.6%となり、4月としては4年連続で半数を超えた。非正社員の不足感は28.3%だったが、正社員不足は依然として高水準である。業種別では、情報サービス、運輸・倉庫、メンテナンス・警備・検査、建設などで不足感が強く、7業種で正社員不足の割合が6割を超えた。
人手不足の質も変わっている。かつては単純に人員数が足りないという問題が中心だったが、現在は業務に合う技能を持つ人材が採れないという問題が重なっている。帝国データバンクの調査では、情報サービス業でAIやDX関連案件が増える一方、AIが生成したコードを安定運用する設計人材など、より高度なスキルを持つ人材の確保が難しくなっているとの企業の声が示された。
大同生命サーベイでも、人手不足への対応策として「採用条件の改善」「従業員のリスキリング」「従業員のマルチタスク化」が上位に挙がった。採用条件の改善は賃金や処遇の見直しを意味するが、それだけで大企業との人材獲得競争に勝つことは容易ではない。むしろ、既存社員の技能向上、複数業務への対応、資格取得支援、柔軟な就業条件の導入が、中小企業にとって現実的な人財戦略になりつつある。
人財確保の現場では、地域密着型の工夫も広がっている。大同生命の調査には、就業条件を柔軟化して幅広い人財を確保するサービス業、国家資格取得を支援する建設業、障がい者雇用を事業拡大につなげる企業、地元の工業高校や職業訓練校と連携する企業の事例が寄せられた。こうした取り組みは、大規模な採用広告や高額な賃上げに依存しにくい中小企業にとって、地域ネットワークを活用した人財確保策といえる。
しかし、人手不足だけが経営課題ではない。物価上昇とコスト増加も、中小企業の収益を圧迫している。大同生命サーベイでは、国際情勢に伴う物価上昇について、約9割の企業が経営への影響に不安を感じているとされた。特に自社の業況を「悪い」と判断している企業では、強い不安を感じる割合が高く、収支の赤字化や事業縮小への懸念が目立った。
経営への具体的な影響としては、固定費の節約、収支の赤字化、燃料・原材料不足が上位に挙がった。業況が悪い企業では「収支の赤字化」が50%に達し、「廃業や大幅な事業縮小」との回答も24%に上った。これは、物価高が単なる費用増ではなく、事業継続そのものを揺さぶる段階に入っている企業があることを示している。
中小企業にとって重要なのは、コスト上昇をどこまで価格に転嫁できるかである。経済産業省が2026年3月時点の価格交渉促進月間フォローアップ調査として公表した結果では、価格転嫁率は54.2%だった。コスト要素別では、原材料費の転嫁率が55.7%、労務費が50.0%、エネルギーコストが48.9%となった。一定の改善は見られるが、上昇したコストのすべてを販売価格や取引価格に反映できているわけではない。
価格転嫁が進まない背景には、取引関係の力学がある。中小企業は大企業に比べて交渉力が弱く、取引先との関係維持を優先して値上げをためらう場合が多い。とりわけ建設、運輸、製造、小売などでは、燃料費や資材費の上昇が直撃する一方、価格転嫁の遅れが利益を圧迫する。帝国データバンクの調査でも、運輸・倉庫業では売上が伸びても人件費、燃料、資材価格の上昇により増収減益が続き、価格転嫁が追いついていないとの声が示された。
こうした状況は、日本の中小企業政策が重視する「稼ぐ力」とも直結する。中小企業庁の2026年版中小企業白書は、「強い中小企業」に向けた稼ぐ力の強化をテーマに掲げ、労働生産性、人材確保・活用、収益力の向上を重要課題として整理している。人手不足と価格上昇が同時に進む局面では、従来のコスト削減型経営だけでは限界がある。
大同生命サーベイの自由回答にも、現場の苦境と工夫が同時に表れている。材料費高騰分を顧客に転嫁できず自社で負担している企業、部品の注文制限で製造を抑えざるを得ない企業、燃料・資材高騰で工事中断を懸念する企業がある一方、新規仕入れルートの開拓、生成AIを活用した営業管理コスト削減、先行在庫確保による供給不足リスク回避に取り組む企業もあった。
この点で、生成AIの活用は中小企業にとって単なる流行語ではなくなりつつある。人員を急に増やせない企業にとって、営業管理、顧客対応、見積作成、在庫管理、社内文書作成などの業務効率化は、人手不足への現実的な対応策になる。もっとも、AI導入だけで収益構造が変わるわけではない。業務プロセスの見直し、社員教育、データ管理、顧客対応の標準化が伴って初めて、生産性向上につながる。
人財戦略でも同じことがいえる。採用難の時代には、新規採用だけに依存する経営は不安定になりやすい。既存社員が複数業務を担える体制、資格取得を支援する制度、シニア人材や外部人材を柔軟に活用する仕組み、短時間勤務や副業人材を受け入れる制度が必要になる。大同生命サーベイを監修した神戸大学経済経営研究所の柴本昌彦教授も、採用できる人を待つだけでなく、今いる人財の力を引き出す視点が重要だと指摘している。
一方、価格転嫁と収益構造の見直しも避けられない。柴本教授は、コスト削減だけで対応するには限界があり、価格転嫁、取引条件の見直し、調達先の分散、高付加価値の商品・サービスへの転換を通じて収益構造を見直すことが重要だと述べている。これは、中小企業が「安く請ける」構造から、「価値を説明して適正価格を受け取る」構造へ移る必要があることを意味する。
日本の中小企業にとって、今後の競争力は人件費を抑えることではなく、人財一人あたりの付加価値を高めることに移っていく。賃上げは必要だが、賃上げを継続するためには収益力が必要である。収益力を高めるには、価格交渉、商品・サービスの高付加価値化、業務効率化、人財育成を同時に進めなければならない。採用難と物価高は別々の課題ではなく、企業の稼ぐ構造を問い直す一つの問題である。
行政や金融機関の役割も大きい。価格交渉を進める制度整備、リスキリング支援、DX導入支援、事業承継、人材マッチング、地域金融による経営改善支援は、中小企業の構造転換を支える基盤になる。特に地方の中小企業では、地域の学校、商工団体、金融機関、自治体が連携して人財確保と販路拡大を支援する仕組みが重要になる。
今回の大同生命サーベイが示したのは、日本の中小企業が厳しい景況感の中でも、採用、人財育成、価格転嫁、調達改革、AI活用に取り組み始めている現実である。ただし、その取り組みはまだ個別企業の努力に依存している面が大きい。今後は、企業自身の経営改革に加え、取引慣行の改善、地域ネットワークの再構築、政策支援の実効性が問われる。
中小企業の競争力は、採用人数の多さだけで決まらない。人財が定着し、学び直し、複数の役割を担い、適正な価格で価値を提供できるかが重要になる。人手不足と物価高が続く日本経済において、中小企業の課題は「人を採る経営」から「人を生かして稼ぐ経営」へ移っている。今回の調査は、その転換点を映し出している。